Re:Re:Refrain

10月8日

 制服の衣替えは終わったのに、まだ夏は終わらないように最高気温が三十度近い日が続いている。
 課題を学校にいるうちに終わらせたくて居残りをしていた。
 今日の英語の授業で、ペアを作ってプリントを採点した。わたしのペアの相手は、二学期になってから席が前後になった浦島虎徹くんという男の子だった。明るい髪の色からそのままイメージされるような性格で、友達が多くて、かといって陽キャ、みたいな感じではなくて——同年代の男子とはどこか違う雰囲気を持っている人だった。
 元気で明るく朗らか、というキャラに留まらないような、弟のような素直さをよく発揮して周囲にいじられているのに、ときどきずっと遠い過去を見つめるまなざしをしているような、うまく説明できないけどそんな雰囲気をしていることが気になって、気づけば授業中にその後ろ姿を目で追うようになっていた。
 そんな彼に、自分のきれいかどうか自信がない字や間違っているかもしれない回答を見られることが恥ずかしくて、今日はずっとネガティヴな気分に支配されていた。そのとき間違えた部分の復習である。
 教室には、練習があるような部活に所属している人たち以外、まだ多くの同級生たちが残っていた。浦島くんも例外ではなく、何人かの男子と談笑している。
 がたん、と机が揺れて字がぶれた。前の席で会話が盛り上がって、椅子がぶつかったのだった。談笑していた人たちは特に気にすることなく話しつづけているので、わたしも気にしないことにして消しゴムを取り出す。でも、些細なことなのにネガティヴに引きずられて、ちいさなささくれができたような気持ちになった。
 授業や先生の目から解放された空気の中で毎日同じように過ごしているのに、今日は自分だけが教室の中で浮いている心地だ。
 とにかく、個性を出したくない、と思っている。わたしは透明人間のように息をひそめることでなんとか教室で生き延びている。だから今居残りをして課題をしていることも風景のひとつとしてスルーしてもらわないといけない。家でもできる勉強をわざわざやっているのはわたしなんだから、楽しく過ごしている人たちを邪魔してはいけないんだ。そう言い聞かせて、沈んだ気持ちをなぞるようにまたシャープペンを走らせる。
 実際わたしが思うほどわたしの存在を気にしている人なんていないのかもしれない。でもそう思い込んでしまうのはやめられなくて、ひとつひとつの言動にいつもしつこく注意を払っていた。
 だから、わたしが人気者の浦島くんを気にしていることが知られてしまったら、大変なことになる。本当は彼がなにを喋っているのか、どんな話題で笑顔になっているのか今も気になっている、という感情を押し殺す。
 図書室に移動しようと決めて、音を立てないように荷物をまとめると教室を出た。

 図書室には思っていたとおり人がいなくて、そっと息を吐いた。窓際の自習スペースの机に鞄を下ろして椅子に腰かける。落ち着く気分だ。三階の端にある図書室は、放課後の校舎の中でもひときわ人気がないから、今日みたいに学校で課題を終わらせてから帰りたいときに来ることがあった。
 フローリングの床と本のにおい。ノートとペンケースを出して、長机を贅沢にひとりじめする。集中できそうだし、教室よりずっと居心地が良かった。頑張って早く課題を終わらせて、帰ろう。
 そう思ったとき、廊下からぱたぱたと足音が聞こえて、オレンジ色が常時開いている引き戸の間にひょこっと顔を出した。浦島くんだった。

「——さんっ」

 見つけた、というようにぱっと表情が明るくなった。なんで浦島くんがここに、と状況が読み込めず、慌てて姿勢を正すと、彼はわたしの方まで近寄ってくる。

「急にごめん。えーと、さっき邪魔しちゃったかなって」
「え?」
「さっき教室で、集中してたのに俺たちがうるさくて、邪魔したかなって思って」

 頭をフル回転させて思い出す、教室のこと。さきほど机に椅子がぶつかったことを言っているのだろうか。

「あ、ううん、わたしが静かな方が集中できるってだけで。気にしてなかったし……」

 そう断りながら、わたしの胸の中は、彼の気遣いによって光っていくような気がしていた。友達と会話しながらも、わたしのことを見て、なにをしているのか、どんな様子だったのか気づいていてくれたんだ、一人で追いかけてきてくれたんだ、と実感すると、爆発するみたいにうれしさが炸裂する。ぶわ、と顔が熱くなるような気がして慌てた。

「むしろその、気を遣わせてごめん」

 わたしが空気読めてなかっただけだから、の一言はしまって、なんとか平静を装いながら口にする。
 浦島くんは「そんなことないよー」と言いながら、鞄を挟んで隣の椅子を引いた。

「図書室よく来るの?」

 あまりちゃんと会話したことがない彼が、わたしに話しかけている。特別なにかあるわけじゃなくて、彼がそういう性格だから、ということはじゅうぶんにわかっているのに、教室の友人たちではなくわたしを選んでいる、という事実は頬の熱に拍車をかけてやまない。

「た、たまに」
「へー。俺、授業でしか来たことないかも」
「あ、うん。たぶん、みんなそういう感じで、人が全然いないから。学校にいたいけど、集中したいなってときとかに来るんだよね」

 当たり前のように浦島くんと並んで喋っているのが、変な感じだ。

「そうなんだ! 俺は静かな方がなんか緊張しちゃって落ち着かないから、すごいね」
「浦島くん、友達多いもんね」
「よく言われる」

 図書室のこぢんまりとした棚をそわそわと見回していた浦島くんは、こちらを向くと顔をすこし寄せてきた。

「俺もここ、たまに来てもいい?」

 もちろん、わたしたちの間には鞄が置かれた椅子があるから、それほど距離が変化したわけではないものの、秘密を話すときのような声のトーンにどきりとした。

「え、いや、来るのは自由っていうか、わたしがいいとか悪いとか言うあれはないから、」

 戸惑いながらわたしも声のトーンを合わせてしまった。内緒話をするように声をひそめて早口な自分がちょっと滑稽だ。

「でも、——さんの大切な場所じゃない?」
「っ……、大丈夫だよ」

 なんて優しいんだろうと、一瞬胸が詰まるほど感動してしまった。また胸の中でうれしい気持ちが爆発する。
 浦島くんはありがとう、と言ってはにかむと、おおきく伸びをして脱力し、椅子の背もたれに寄りかかった。

「なんていうか。さっきはさ、俺の飼ってるカメの話してて楽しかったんだけど。俺もたまには一人になりたいときがあるんだよねぇ」

 はにかむような表情はたしかに明るかったけど、いつも教室で見るよりずっと大人っぽいように見えた。窓から差す、夏の名残を感じさせる強い西日が彼を茜色に染めている。

「カメ?」
「そう。見る?」

 頷くと、彼は身体を起こしてスラックスのポケットからスマホを取り出した。
 カメがちょこんと写った写真をいくつか見せてくれた。

「亀吉っていうんだ。たまに脱走しちゃうんだけど」
「へぇ。……かわいい。なんか、カメってもっと渋い感じだと思った」

 さまざまな角度や距離で撮られた写真を見ると、愛されているのがよくわかる。
 彼がスワイプすると、その次は長髪の男性の写真が表示された。夏の写真なのか、深い青緑の着流し? を着て困ったような笑顔をしている。
 やわらかさを口の端にたたえながら、ただし誇り高いように引き締まった雰囲気も併せ持つその写真は、たぶん、大切なものだということだけわかった。見ていいのかわからず、画面から顔を上げて浦島くんを見た。

「あ、ごめん! これはね、兄ちゃんの写真」

 浦島くんはハプニングのつもりもないのか、気にしていない感じで紹介してくれる。ふたたび写真に目を落とす。ピンクと紫のあわいのような、明るくてきれいな色の長髪を結んでいる。そのしなやかさに思わず目を奪われて、お兄さんというその人をまじまじと見つめてしまった。

「ふふーん、かっこいいと思ってるでしょ?」
「いい写真だなと思って」

 家族のかけがえない瞬間なんだろうということが伝わってきて、素直に感じたままを告げていた。同時に、浦島くんの個人的なものに触れていることに緊張するような思いもして、そっと彼の様子をうかがう。
 浦島くんはスマホを自分に引き寄せて、またポケットにしまう。

「……兄ちゃんの話、あんまりしたことないんだよね」

 言葉を探すようにさまよっていた瞳がこちらを向く。

「聞いてくれてありがとう。これから——さんとは日直一緒になるから、また話そうね」

 よく晴れた日の海を閉じ込めたような色が、すこし細くなって弧を描いた。そのきらきらした色に惹きつけられて、頷きながら、もっと彼のことを知りたい、という気持ちは今度こそ抑えきれなくなりそうだった。
 これは、わたしと浦島くんがはじめて二人きりで会話したときのこと。