Re:Refrain

12月2日

 三週間経ち、すっかり冬になったころ、わたしと浦島くんがふたたび日直当番を務める日がやってきた。
 月末のクリスマスや、終業式を目前として、なんとなく教室全体が浮き足立っているような雰囲気の中、朝礼が終わった後先生が話しかけてきた。

「おー、二人とも。ちょっといいか?」

 浦島くんの席に近づいてきて、ついでにわたしのことも見る。日直の仕事で何かあるのだろうかと思い、わたしは姿勢を正した。

「はい」
「はい! なんですか、先生!」

 浦島くんの元気の良さに先生が苦笑する。わたしもちょっとにやけた。

「今日浦島が三者面談だからさ、悪いけど放課後の仕事任せられない?」

 今週からおこなわれている、進路指導の三者面談のことだった。

「大丈夫です」

 別にたいした仕事量でもないので二つ返事で頷く。

「ごめん、俺からもお願い!」

 浦島くんが身体ごと振り返って手を合わせる。

「大丈夫だよ、そんなに大変じゃないのわかってるから」
「ありがとー、助かるっ」
「じゃあよろしく。浦島は放課後、模試の結果も渡すから覚悟しとけよー」
「うう、怖いこと言わないでよ先生~!」

 のんびりと言った先生が教室を出て行った。先生が不在になるといっそう教室の喧騒は広がっていって、浦島くんとの会話の余韻は薄れていった。
 彼がいると、いつも教室の隅まで太陽が差し込むみたいな感じがして、意識すると胸がほんのりとあたたかくなる。放課後にまた二人きりの時間が生まれることを楽しみにしていたので残念だけど、朝礼の進行を役割分担するときから続けて喋ることができて嬉しかった。
 チャイムが鳴って、一時間目の古典を担当する先生がやってきた。いくばくかのざわめきが波のように引いていく中で学級委員長が号令をかけて、わたしはまた、起立、の声に合わせて明るいオレンジの頭が揺れるのを見つめていた。

 すっかり暗くなっていることに気づいて、後ろ手に照明のスイッチを点けながら教室に入った。
 トイレに行っている間に残っていた人たちは部活に行ったり帰宅したりしたようだ。スイッチのすぐ横に「節電!」の貼り紙があって、効いているんだかいないんだかわからないくらいの弱々しさで、頼りなく稼働する暖房に迎えられて思わず身震いする。机の整頓や黒板周りの掃除は終わり、後は日誌を書くだけなので、ネイビーのコートに腕を通して自分の席についた。
 校則でアウターの色まで指定されているなんて変だと思う。
 蛍光灯がからっぽの教室を照らして、窓に反射している。時計の針の音と遠くの教室にいる吹奏楽部の演奏以外何も聞こえないと、なんとなく心細い気持ちがするが、慣れっこだった。
 日誌を開く。ふと思いついて、わたしは前回当番だったときに浦島くんが書いたページを探してみた。何ページか遡るも、数日前に新たな冊子に切り替わったようで、残念ながら読むことはできなかった。最新のページまでまためくる。自分の行動がちょっと気持ち悪かったかもしれないと思って手が止まる。
 浦島くんのこと。気になる、という気持ちは持っているけど、それだけだ。いつも前の席の様子を目で追っていると気持ちが前向きになるし、今日みたいに話せたらそれだけで一日良かったと思うくらい嬉しい。
 でもきっと、周りの女子たちに話したら、「好きなんじゃん」とか言われるのだろうと思う。だからずっと、自分だけの秘密だった。名前をつけるのはとても簡単だけど、言葉にできないことがわたしの均衡を保っていると感じている。
 そこまで考えて、ぼーっとしてしまっていたと気づく。シャープペンを持って、日付や時間割の欄を埋めていった。
 すると教室のドアをノックする鈍い音が響いて、わたしは顔を上げた。
 引き戸の真ん中に嵌められたガラスから、男性の姿が見える。大人で、見たことのない人だ。
 わたしはどうすればいいのかわからなくて固まってしまった。するともう一度ノックの音がする。あくまでこちらから開けてもらうまでは入らないという意思のようだ。不審な気持ちがいくらか軽減し、おそるおそる近づく。
 こわごわと引き戸を開けると、その人は遠くから見ていたときよりもずっとおおきく見えた。背が高いだけでなく体格も立派だ。クマとか、あるいはネコ科の動物を思わせた。前髪が長く、肩につきそうなくらいの髪を括っていて、金髪が交じっている。黒のジャケットとスラックスに白のカットソーを着ていて、フォーマルとカジュアルの中間くらいの格好は、おそらく先生ではなかった。

「すまない、進路指導室は……」

 その人が喋った。低く、豊かな声だった。

「えっと、左に行って、突き当たりから二番目の教室です」

 咄嗟に答える。

「ああ、感謝する」

 頷いたその人は、来客用のスリッパをぺたぺたと鳴らしながら去っていった。一部始終を呆気に取られたような気持ちで見ていたが、今になって三者面談のことを思い出した。
 もしかして、あの人は浦島くんの保護者なのだろうか。

『俺さー、兄ちゃんしかいなくてさー』

 同時に以前、帰り道で浦島くんが打ち明けてくれたことを思い出した。
 浦島くんの、お兄さん? あの男性に浦島くんが親しんでいる様子を想像してみる。無骨だけど、どっしりと懐が広いようなイメージを持った。
 家族の前だけで見せる浦島くんの表情って、どんなものだろう。
 不思議な気持ちになって、わたしは空想に耽りながら一人で日誌を書いた。

 いつもどおり登校して、冷たい椅子を引いて腰かける。前の席はまだ空いている。鞄を机の横にかけてコートを脱いでいると、近くで繰り広げられていた会話が耳に入った。

「昨日見たんでしょ? 浦島くんの親」

 どきっとする。放課後すこしだけ会話した、あの男性のことを思い出して一瞬手が止まった。

「そう、なんか、めっちゃ若かった」

 お兄さんらしいよ、と別の女子が言う。

「え、そうなんだ。親は?」
「いないんだってー」
「えーなんで? ヤバくね」

 心臓が嫌な感じに跳ねて、思わずがたんと立ち上がる。別に誰もわたしのことは見ないし、会話は止まったりしない。逃げるように廊下に出た。
 教室を出てしまえば朝のざわめきの中に紛れてしまう。意味もなく、二、三歩とぼとぼと歩く。

『家族って三人しかいないのに、二番目の兄ちゃんが一番上の兄ちゃんのこと、嫌ってて』
『親は?』
『なんで?』

 頭の中で、言葉がいくつも反響する。まだどきどきしていた。
 家族のあり方について、規範的な意識を押しつけあう同級生たちの会話の行き先に、恐怖と嫌悪を感じていた。
 でも何も言えない自分が嫌になる。関係ないわたしが、何かを言っていいのかわからない。
 教室の前の中途半端な位置で立ち尽くしているわたしを、誰も気にすることなく追い越していく。何も考えることなく発された、無邪気に誰かを踏みつける言葉でちっぽけな教室はすぐいっぱいになってしまう。
 苦しくなって、咄嗟に自分を大丈夫にしてくれることを思い浮かべる。

 飼っているカメの写真を見せてくれたこと。
 雨の日は、すこし暗いオレンジ色。
 ——あれ、彼とのことばかりだ。

「おはよー」

 今まさに強く思っていた男の子の声に、振り向いた。たしかにわたしに声をかけた浦島くんは、校則違反な水色のダウンジャケットを腕に持っている。

「お、おはよう」

 小さな声で返事する。浦島くんは教室に入れないわたしを訝しむこともなく、明るい表情のままでいる。

「昨日は日直の仕事、ありがとね」
「……ううん、大丈夫だよ」
「——さんは三者面談まだだよね? 模試の結果初めて見るからさ、緊張すごかったぁ」

 いつもと変わらない調子で会話が続く。いろいろな感情が去来して、口を開こうとしたけど、ただ頷いた。
 無言の時間が過ぎる。いつまでも動くことのできないわたしの様子に、流石にきょとんとした表情をされる。

「あ、あの」

 この状況を打開したくて声を出した。でも、何も考えていなかった。

「うん?」

 浦島くんがすこし首を傾げる。どうしよう、何か言わないと。なんて言ったらいいかわからない。
 でも、あの放課後、勇気を出して打ち明けてくれたであろうことを思う。

「……昨日、浦島くんのお兄さん? に、会って」
「え! そうなの? 長曽祢兄ちゃんに?」
「うん、多分。それで、あの……道とか聞かれて。優しそうな人だなあって」

 振り切ったつもりのさまざまな感情にすぐ追いつかれて、しどろもどろになりながら、思っていたことをそのまま言ってしまう。
 浦島くんのお兄さんだという、あの人。体つきや雰囲気には圧倒されたけど、こちらがドアを開けるまで待つ仕草を見て、きっと優しいのだろうと素直に感じていた。こんなふうに口から出てしまったのは想定外だったけど、本心だった。

「へへ、そう言ってもらえると俺も嬉しい。そっかー、兄ちゃんのことも助けてもらったんだね」

 ありがとう、と浦島くんは笑って頭を下げた。合わせて髪が揺れるのを見て、なんとなく、外向きに跳ねている感じが似ているかも、と思った。
 こんな話までするつもりはなかったけど、彼の笑顔が見れて、心がゆっくり満たされていく気持ちになる。
 勝手に傷ついて、勝手に癒えて、でも、彼が傷つかなくてよかったと思った。

「席まで一緒に行こうぜ」
「……うん」

 自然に誘われて、初めて足がリノリウムの床から離れた。不思議と、ずっと息がしやすくなっていた。
 二人で教室に入ると、先程まで浦島くんの話をしていた女子たちはもう席に戻っていて、ほっとした。今度こそコートを脱いで、ロッカーにしまう。
 席に戻って鞄からペンケースやノートを取り出していると、目の前に封が開いたお菓子が差し出される。椅子に後ろ向きに腰かけた浦島くんが差し出していた。

「これ、昨日のお礼」
「そんな、いいよ」
「兄ちゃんのこともあるし」

 もらってもらって、と揺れるパッケージの中でスナックがしゃかしゃか軽やかな音を立てる。

「じゃあ……ありがとう」

 腕を伸ばして一つつまみあげた。

「なんの形だった?」
「え……なんだろ、これ」

 口に運ぶ前に問われて、丸っこいフォルムのスナックを手のひらに乗せた。海の生き物のはずだけど、ぐにゃぐにゃしたそれがなんなのかは一見わからなかった。

「えっとね、……それはカメ!」
「えっ、これ、カメなの」

 思わず浦島くんの顔を見た。そこでまともに視線が合ってしまい、慌ててすこし下げる。おおきなエメラルドの瞳は、冬の朝のぼんやりした光の中でもきらきらしたものをたたえて眩しかった。

「俺もこれ、似てないと思うんだよねぇ。亀吉はこんなに細長くないし」
「亀吉って、浦島くんの飼ってるカメだっけ」
「そう!」

 彼が口を開きかけたところでチャイムがおおきく鳴った。浦島くんは視線だけ時計に向けた後、まだ話したそうにしていたが、先生が入ってきて教室の中が慌ただしくなる。

「ごめん、また後でね」

 体勢を正面に戻して顔が見えなくなる。日直当番が朝礼の号令をかけて、わたしは慌ててスナックを口に押し込んだ。
 うすしお味のお菓子は歯を立てたらすぐ砕けて形がわからなくなる。飲み込んでしまえば、後味も残さないほど軽い食感だった。
 彼と話した時間は本当にわずかで、個人的で、きっとこの教室の中では誰もが通り過ぎていってしまう時間だと思う。けれど、なんでもなくても、わたしにとっては全部が大切だった。
 かけがえのないものが、一つ増えた。心を強くしてくれる思い出の断片が、胸の中で音を立てたような気がした。