Re:Re:Re:Refrain
12月20日
二学期最後の授業は、校外学習だった。バスに乗って博物館に来ている。教室で机に向かって受けるいつもの授業とは違うし、冬休みを目前としているから、なんとなく行事っぽい雰囲気だ。バックヤードの会議室のような場所で学芸員さんの説明を受けた後、自由行動の時間になった。
平日の昼間に博物館を訪れる人はあまり多くなく、薄暗い展示室の中では足音さえも慎重になるような雰囲気があるけど、学芸員さんが「来場者同士で話しながら展示を見てもいい日」があると教えてくれた。黙って静かに見るもの、というイメージがあった博物館でも、いろいろな取り組みがされているみたいだ。
教室くらいの広さの展示室が、延々と続いているのかと錯覚するくらい常設展示の会場は広大だった。迷路を抜けるように次々と部屋の中を通っていると、教科書ではあまり取り上げられない、名前のない人たちが繰り返してきた暮らしにまつわるものも多く展示されていることが気になった。自分が普段やっている勉強って本当に狭い範囲のことで、それだけを見て歴史とすることはなんとなく違うんだろうな、と思った。
ガラスケースの中身と、横に掲示されたキャプションを交互に読んで、わかったような、わからないような気持ちになりながら歩いていると、次の展示室は部屋中にひときわぎっしりと物が並べられていた。日本の江戸時代の文化を扱っているようだった。
照明が壁際の物に反射して、きらりとわたしの目を貫いた。気になって近寄ると、展示されていたのは日本刀だった。
《刀 無銘》
無銘ってどういう意味なんだろう。キャプションの英語表記は「Katana: Unsigned」、えーと、作者のサインがない、誰が作ったのかわからない刀ということだろうか? 持ち手の部分がなくて、その部分と刃の部分が組み合わされることで、時代劇とかでイメージするような刀ができていると初めて知った。顔を近づけてよく見ると、刃先の部分がうねうねとした形で白っぽく区切られていることがわかる。キャプションを見ると、刃文という呼び方をするそうだ。でも、それくらいしか見方がわからなかった。
刃文は、切れ味を良くするために硬く作られた箇所にできる模様のようだ。その説明を読んで、なにに使われていたのかを考えるとちょっと怖くなる。
よく磨かれた表面は滑らかに整っている。けれど、この無骨な金属の塊が振るわれたときにどんなことが起こっていたか想像するのは簡単で、誰かを傷つけるために使われたなら、どんなに美しくても怖いと思った。怖いし、許せない。そういうふうに人を分ける社会の構造、そのものが怖い……と、思った。
考え込んでしまって、しばらく立ち尽くしていた。ガラスケースに反射した自分の難しい顔や室内にいる人たちのまばらな姿が見えて、眉間の力を抜く。音が戻ってくるように室内に意識が戻る。
展示に興味がないのか、部屋の中央に置かれた休憩用のソファに腰かけて、スマホを触っている同級生も複数いた。その姿を見たら、先程抱いていた気持ちが急速にしぼんでいくようなとまどいと恥ずかしさが生まれた。
やっぱり考えすぎだったかもしれないし、今までぼーっと生きてきたわたしが急に正義感のようなものを持つのは、おこがましくて変なのかもしれない。
足早にその場を離れようとすると、数歩後ろに浦島くんが立っていた。
他でもない浦島くんがいたことに驚き、かつ、鞄がぶつかりそうになってしまって慌てる。
「ごめん、邪魔だったよね」
小声で謝る。浦島くんは大丈夫、と手で示しながら一歩近づいてきて隣に立つ。
「すごく真剣に見てるからさ、気になって」
「あ、いや……」
「興味あるの?」
「ううん、初めて見たんだけど……なんか、いろいろ想像? してた」
「いろいろ?」
浦島くんのまるい目がこちらをそっと窺う。
いつもと違う、すこし大人しい、凪いだ水の色をした瞳。
その色を見ていたら、なぜか自分の胸中を彼になら打ち明けてもいいような気分になった。きっと浦島くんなら、笑ったりしないで聞いてくれるはずだ、と思った。
勇気を出して心に浮かんだもやもやしたものを口にする。
「わたしは、あんまりこの刀がどう綺麗とか、どう価値があるとか、わからないけど……でも、こんなふうに綺麗にされてるのに、なにかを傷つけるために使われていたら、それって悲しいし怖いなって。……もう戦うために使われることがないといいな……って」
そこまで話して、根拠のない自信に任せて本心をまっすぐ言葉にしたことがやっぱり恥ずかしく、曖昧に笑ってみせる。
「ごめん、考えすぎだよね。……変なこと言ったかも」
どんどん恥ずかしくなってきて、自分を否定する言葉がたちまち浮かんでくる。
「……ううん、そんなことないよ。全然、そんなことない」
浦島くんが力強く視線を合わせてくる。すこし上半身を乗り出すように訴えられて、ちょっとびっくりした。
「あ、ありがとう」
「うん。……そっかぁ、悲しい、かー」
ガラスケースの中を覗き込んで、浦島くんが呟く。
「——さんって優しいねぇ」
微笑んでいる表情とガラスの反射越しに視線が合った。
「……ありがとう」
いろいろ考えて、口に出せたのはやっとそれだけだった。
同級生たちがわたしたちを目に留めることもなく追い越していく。
二歩分空いた左側にいる彼は、なんでもないふうにしているから平静を装う。わたしといえば、優しいと言ってもらえたことに動揺して、その後はずっと黙っていた。
でも、平和であってほしいという気持ちは、さまざまな人が当たり前に持っていてほしいから、やっぱり優しいという言葉は自分には似合わないと思った。
彼に感じた気持ちは、言葉にするなら安心や信頼、なのかもしれない。夏から冬の間にすこしずつ重ねてきた関係が、自分の中でそういうものになっていることが、とてもうれしかった。
帰りのバスの中は、往路より静かだった。同級生たちにとって博物館は退屈に感じる場所だったのかもしれないが、冬休みに企画展示の方に行ってみようかな、と思うくらいわたしにとっては興味深く感じた。
バスの座席は自由に座っていいことになっていて、わたしの隣は空席だった。でも、別に気にしていない。むしろ気楽でいいと思っている。窓側に座ってから鞄をどっかりと通路側に置いて、狭いスペースをなるべくのびのびと使う。
窓からはひんやりした外気が伝わってくる。暖房が効いて眠気を誘う車内の空気と混ざることなくそこにあり、心地いい。窓枠に頬杖をついて外を眺めた。
車窓の外の景色は線になってどんどんと流れていく。
博物館の思い出を反芻する。昔の文字が刻まれた石や、古い生活の跡、古文書、当時の衣服が再現されたもの……。
歴史って結局なんなんだろう。ふとそんな、おおきすぎる問いに手を伸ばしてみた。
わたしたちが今生きていることも、歴史の流れの中では取るに足らないことなのだろう。浦島くんと話せたことみたいに、うれしい、と感じることがあっても、地球の記録には絶対に残らないのだということは、当たり前すぎて落胆もしない。
でも、自分と同じく名前が残ることなんてない人たちの営みが、巡りあって博物館の中で呼吸を続けていて、それを今日見てきたのはものすごい体験に感じられて、わたしはやっぱり博物館が好きだと思った。
そしてあの日本刀も、その他のさまざまな資料も見た。
ただ生きている人たちが悲しくて苦しい思いをして、踏みつけられてきた上でたまたまわたしは生きている。それに、「博物館にある歴史」じゃない戦争は、今わたしがバスに乗っている間も起きているんだ。
たとえば……二百年後くらいの未来でなら、武器や暴力に訴えかけないで交わることが、できるのだろうか……いろいろと考えているうちに集中力が切れてまどろんでしまった。ただ、浦島くんから「優しいね」と言われたときの景色が、瞼の裏で残像のように強く残っていた。
あっという間にバスは学校へ到着して、車外に出ると冷たく糸を張ったような空気に全身が包まれた。
いつの間にか、こんな季節に来てしまったと思った。
終礼で、冬休みの過ごし方についての説明と三学期中の席を決める席替えがおこなわれた。
浦島くんの後ろ姿を眺めていられるのもこの時間が最後なので、朝から憂鬱だった。
先生が黒板に席の図と番号を書いて、用意されたくじを一人ずつ引いていく。
ついにこの時間が来てしまったと思う。教室の端から始まったくじ引きが、こんなときばかりあっという間に進む。
「次、浦島ー」
はーいと返事して浦島くんが席を立った。オレンジ色の毛先を揺らしながら教卓まで歩いていく彼を見て、まだ心の中では未練が残っていた。
浦島くんが席へ戻ってくる。わたしの名前が呼ばれる。諦めながらわたしもプリントの裏紙で作られたくじを引いて、黒板の図と見比べる。新しい席は窓際の前から二番目の席だった。
席まで戻って椅子を引くと、浦島くんが振り返った。
「ねぇ、席どこだった?」
話しかけられると思っていなかったので、暗い表情を慌てて取りつくろってくじを見せた。
「えっと、八番の席」
「あー、離れちゃうね」
やっぱりそうなんだ、の気持ちと、ちょっと残念がるような彼の声の調子にどきっとする気持ちで心が揺れた。
口を開こうとして、でも、余計なことしか言えなさそうだったからただ頷く。
くじ引きがひととおり終わって、机を移動するよう呼びかけられた。
いよいよ最後の時間だ。
この教室で過ごしてきた二学期のことを考えると、すごく楽しかったわけでも、傷つかなかったわけでもない。
ただ、浦島くんの後ろにいたから、わたしは毎日学校に来られたのだと思う。
一緒に日直の仕事をしたこと。メダカを埋めに行ったこと。家族の話をしてくれたこと。
日々は過ぎていくし、わたしは毎日を歩きつづけなければならない。
「浦島くん」
夏から冬に季節が変わるまで彼からもらった勇気に触れる。
いつもまっすぐ見れなかった目を今だけは見つめられた。
「また亀吉のこと教えてね」
それだけ言えた。臆病なわたしの精いっぱいだった。
それでも、透きとおった海のような瞳に、うれしそうな色がさあっと混じっていくのがわかった。
浦島くんは、わたしが大好きな、朝の光が差していくような、あの笑顔でおおきく頷いた。
「また喋ろうぜ」
「うん」
きっと最後にならない約束をして、わたしも微笑んだ。微笑むことができた。