Refrain

11月13日

 西日が眩しかった。
 窓から腕だけを出して黒板消しを叩いていたわたしは、思わず右手を翳した。細かなチョークの粉が晩秋の風に乗ってきらきらと消えていく。窓を閉めて振り返ると、オレンジ色のまっすぐな光線が教室を貫いていた。
 放課後の教室には日直当番のわたしと浦島くんしかいなかった。彼は日誌を書いている。
 浦島くんは、二学期になっておこなわれた席替えで前後の席になった男子だ。プリントが回されるときや授業で会話したことがあるくらいだったけど、ちょうど彼の頬を照らしている光のような明るい色をした頭を、後ろから眺めるのがひそかに好きだった。
 すこし背伸びをしながら、端から黒板消しを滑らせていく。日付と日直当番の名字を書き換えれば作業は終わりだ。手を止めて振り返ると、浦島くんも気づいて顔を上げた。

「あ、終わったー? ありがとう」

 できればもうすこしだけその表情を盗み見たかったけど、浦島くんは再び机に向きなおり、そしてすぐにシャープペンを置いた。

「よっし、俺も書き終わったー!」

 日誌を閉じて立ち上がった彼が、鞄を掴んで肩にかける。後は一階にある職員室に日誌を提出すれば日直の仕事は終了だった。わたしは慌てて自分の机に向かった。

「あ、書いてくれたし、わたし出してくるよ」
「いいっていいって! じゃあ一緒に行く?」

 さらりと提案されて、鞄に荷物を詰め込んでいた手が一瞬止まる。

「うん」

 あたたかさがじんわり胸に広がる。彼のこういうところがいいな、と思っている。
 わたしが荷物をまとめていると、立ったまま日誌をぱらぱらとめくっていた浦島くんが、「あれ、」と声を上げた。

「メダカにご飯ってあげたっけ」
「あ……、やってなかった」

 このクラスでは、教室の後ろにある水槽でメダカを飼っている。日直は曜日によって餌やりの仕事を担当する必要があった。

「ごめん、忘れてた」
「大丈夫! 俺やっとくね」

 そう言いながら教室の後ろへ歩き出している。

「ごめん、色々やってもらって」
「いいよいいよ、俺生き物好きだからさ」

 謝りながら追いついて、並んで水槽を眺める。浦島くんは餌のパッケージから粉をつまんで水面に撒いた。ぱっと広がったそれに、数匹のメダカが近づいていく。

「うんうん、たくさん食べろよー」

 こぽこぽという、空気を送る機械の音と浦島くんの声。わたしは泳ぐメダカの姿を目で追っていると、底に動かない個体がいることに気がついた。

「あ……」

 さかさまになったその魚は多分、死んでいるのだった。そのことを悟って思わず目を逸らした。

「……どうしたの? ……あっ」

 浦島くんも気がついたようで表情が曇る。
 胸がずきりと痛んで、すこし沈黙が漂う。

「……俺、先生に言ってくるよ。日誌も出してくる」

 浦島くんは呟くように言って、返事を待たずに教室を出て行ってしまった。
 遠くから吹奏楽部がチューニングをする音が響く中、わたしは折り合いをつけられないまま立ち尽くしていた。

 五分と経たないうちに、浦島くんは担任の先生とともに教室に戻ってきた。

「先生が埋めてくるから」

 そう言って、窓際のロッカーから網を取り出す。きっとそれで掬い上げるのだろう。

「俺も手伝います」

 と、間髪入れずに浦島くんが言った。先生は何か言いたそうにしていたけど、頷いた。
 わたしは思いがけず放課後に現れた命の終わりになんとなく気持ちが沈んで、先生をぼんやりと眺めていることしかできなかったけれど、浦島くんの真剣な横顔に圧倒されて、瞬間、心を奪われていた。
 意志の強いエメラルドの瞳。

「わ、わたしも。なにか、できることがあれば……」

 おずおずと声を上げると先生に視線を向けられる。またなにか言いたそうにしていたが、「んじゃま、命の授業ってことで」と言って再び水面に向き合った。

「ロッカーの中に軍手があるから、それ持って待ってて。スコップは職員室にあるから」

 西日はさっきより低い角度で教室に差し込んでいるようだった。

 先生がバケツにその魚を移し替え、職員室まで黙って歩く。
 後に続いて、入口で二人で待つ。園芸用のスコップを手渡される。ずっしりとした金属の重みを感じながら、靴箱で上履きを履き替えた。
 校庭の端を横切りながら、ときどき運動部のかけ声が飛んでくる。太陽は山あいにほとんど沈みかけている。前を行く先生と彼を見失うほどの暗さではなかったのに、何故か孤独感に駆られて二人を追いかけた。
 校舎裏にある花壇。その隣の畑にしゃがみ込んだ。
 手伝うと言ったものの、ほとんどの作業を先生がおこなっている。軍手をはめてスコップを持ったままその手つきをわたしは眺めていた。
 柔らかくて黒い土を掘って、手のひらを広げたくらいの穴を作る。
 ちいさなメダカを乗せ、すこし時間を置いた後、土をかけた。

「生き物ってのはいずれみな死ぬんだ。人間だってそうだ」

 地面を元通りにしながら先生が呟く。

「だから今を大切に生きなきゃならないんだよ。……手伝ってくれてありがとうな。先生はうれしかった」

 あっという間に他の場所と見分けがつかないほど均されたそこに向かって、浦島くんが手を合わせた。
 わたしも倣って目を閉じた。
 ……でも、どのような気持ちでいればいいのかわからなかった。わたしにとって、正直、メダカはクラスのみんなのものという印象だった。命を管理していたという当事者意識は薄い、というのが本心だった。
 ただ、生き物が好きだと言っていた彼が顔をほころばせていたのを思い出す。
 ただ無心に手を合わせ、なにかに向かって祈る。
 向こうでは夕日がまるで音を立てたように消えた。

 スコップを先生に預け、鞄を取りに一度教室に戻った後、再び昇降口に向かって階段を降りている。今度は帰宅するためだ。
 彼との会話はなかった。それがもどかしいような、でもふさわしい空気だというのは身にしみて、ただうつむきがちに歩いた。
 靴箱からローファーを出して履き替える。さっき畑で靴底に付いた土も、家に着くまでにわからなくなってしまうだろう。爪先をとんとんと入れて前を向く。

「あのさ」

 既にスニーカーに履き替えて数歩先に立っていた浦島くんが声をかけてきた。

「ありがとう。日直の仕事も、いろいろも」

 快活さが失われているわけではなかったが、すべてがいつもどおりとはいかない声のトーンに、胸がすこし苦しくなる。

「ううん。こちらこそ、一緒にやってくれてありがとう。浦島くん」
「うん。校門まで一緒に行こうぜ」

 すっかり暗くなった校庭を並んで歩く。肌に触れる空気で、冬の訪れがそう遠くないことがわかる。

「俺さー、兄ちゃんしかいなくてさー」

 ざっ、ざっ、と砂を踏みしめる音に、浦島くんの声が混じる。
 その表情は数歩後ろからは見えなかったが、あくまで明るく努めているようだった。

「家族って三人しかいないのに、二番目の兄ちゃんが一番上の兄ちゃんのこと、嫌っててさー。仲良くしてほしいんだよね」

 黙って聞いていることしかできなかった。

「みんないつか、やっぱり、死んじゃうんだなーって。俺、カメも飼ってるし」
「でも、カメなら、万年生きるって言うから」

 咄嗟にそう言っていた。
 フォローになっていないことはわかっていた。ただ、はじめて感じる、彼の天真爛漫さの裏に押し込められた感情に、なにかをしてあげたくなったのだ。

「そっか。あはは、ありがと!」

 振り返って見せた笑顔は、いつもと変わらず眩しかった。
 校門に着いた。そこで別れる……かと思ったが、浦島くんは車止めのU字パイプにもたれるように立ち止まった。わたしも砂とアスファルトの境で足を止める。

「……生き物だけじゃなくて、物にも死ってあると思う?」
「え?」

 突然の問いに顔を上げた。

「物にも、命とか、心ってあるのかなぁ」

 とても純粋で、根源的なようで、深淵を覗いているようでもあるその問いに、黙り込む。
 その時間はきっと一瞬だけど、とても長い時間のように感じていた。戸惑いながらも悪い心地はしなかった。

「……きっとあるよ。だから、大切にしたら……きっと、大丈夫」

 自分でも自信がない、半分願いを込めた答えだった。
 それでも浦島くんはわたしの言葉を噛みしめるように何度か頷いてくれた。

「そうだよね。そうだといいって、俺も思うな」

 よかったぁ、と言ってまたぱっと向日葵が咲くような笑顔を浮かべた。
 空気がやわらいで安心する。
 胸の辺りで手を上げる。

「じゃあ、わたしこっちだから。また明日」
「うん、また明日! ばいばいー」

 お互い、家路につく。

 一度だけ振り返ると、宵に紛れて夕日色の頭が揺れていた。
 胸の中で光が弾けたような気がした。それは死について考える気持ちに負けないくらい強く光った。