perfect, nameless, fake starry night

 きっと私たちは地下で過ごしすぎたと思う。
 特別業務部審査課・伊藤班の仕事が終わるのはいつも深夜だけど、今日は特にそうだった。終電を過ぎたので、運転免許を持っていない私を雪村が車で送ってくれていた。班内でも互いのプライベートにはほとんど干渉することのない同僚がなぜ私の家を知っているのかというと、一応付き合っていたからだ。さっきまでは。
「頼まれたら今日みたいに家まで送るけど、付き合うのはもうやめよう」
 と、雪村が言った。
 私は運転をする雪村の横顔を見た。雪村の視線はフロントガラスの先に向けられている。
「……なんでか聞いていい?」
 唐突に切り出された破局の言葉はどこか現実感がなく、自分でも驚くほど普段と変わらないトーンで尋ねた。
「——が好きって気持ちがよくわからなかった」
「……私が嫌いってこと?」
「そういうわけじゃないけど。他の同僚に対する好ましさと、恋愛的な好きの違いがオレにはよくわかんなかったかも。だから、ごめん」
 残業をした頭に、のろのろとしたスピードで雪村の言葉が浸透していく。強めに何度か瞬きをして、疲れた目で彼の横顔と、その向こうの車窓に流れていく光の線をぼーっと見た。脱色した髪に信号や街灯が反射して、つやつや光っている。何かのミュージックビデオみたいだなと場違いに思った。
 それで。
 恋人+付き合うのはもうやめよう
 =つまり別れ話?
「や、やだ」
 自分が振られかけていることに気づいて、喋ろうとしたら声がひっくり返った。動揺。喉の奥に何かが詰まったみたいになっている。
(え、いやですけど)
 いやだ。恋人でいたい。
 他の同僚と何が違うかなんて、そんなの私にだってわかんないよ。
 そう言いたかったけど、感情がしっちゃかめっちゃかになって処理しきれず、口をつぐんで耐えることしかできない。
 雪村は流石に気にしたのか、こちらをちらりと見てからゆっくりと停車させた。ちょうど交差点で、信号は赤だった。
「どうせ仕事でずっと一緒なんだから、何も変わらないよ」
「か、変わるしっ。ていうか、気まずくないの」
「オレ人と付き合うの初めてだからよくわかんないんだよ」
「絶対嘘だあ……」
「嘘じゃないんだけど」
 私は黙った。黙って考えた。かちかちと、ウインカーの音だけが車内に響いている。
 よく考えてみても、特四の、というかうちの班の勤務形態のせいで、私たちは一日のほとんどを一緒に過ごしている。恋人であってもなくても、顔を合わせる生活が大きく変化することがないというのは、事実だ。
 だからといって雪村の言うことを素直に飲み込めるわけではなかった。さっきの「他の同僚に対する好ましさと恋愛的な好きの違いがわからなかった」という言葉には、そんなの自分だってそうだと張り合ってみたけど、二人でいるから感じた気安さや優しさが確かにあったと思えるからだ。たとえそれがどんなに小さな思い出でも。
 雪村の言ったことを反芻する。他の同僚に対する好ましさ——つまり、雪村の恋愛感情は同僚たちにも向けることができるということか? いや、それはさすがに二元論的な考えすぎる。「恋愛的な好きとの違いがわからない」という部分が、きっと本質的だ。
 雪村にとって恋愛というものは、わからないもの——もしそこまでではなくても、今の彼にとって必要ない、ということだ。
「や、やだよっ」
 私は雪村の事情を考えてもなお、駄々をこねるみたいに否定を繰り返すことしかできなかった。
 信号が青に変わって、またこっちを見なくなる。
「頼まれたら今日みたいに家まで行くのもやるよ」
 恐ろしいほど平熱のその態度から、この関係に執着しているのは私だけだと簡単に察せられる。
「じゃあ別れなくていいじゃん」
「うーん、まあ……でも、オレは別れたいよ」
「えええ……」
 ボスが買っているところである雪村の交渉テクニックは、別に今は発揮されていない。私の切実さは俎上に載せられることもなく、ただ簡単にかわされているのが辛かった。
 既に何もかも負けている。雪村は私を置いて次に行く。逆転ホームランなんてもう無理だ。
 こうなったこいつはもうどうしようもないと感じる自分と、少しでもこの時間を引き延ばしたい自分が拮抗して、必死で頭を回転させる。
「ゆ、猶予を……猶予をください……」
「なんで敬語? ……あ、雨降ってきた」
 雪村が呟いてワイパーを動かす。彼にとっては別れ話も雨が降ってきたことも同列の話題らしい。私より先に泣いてんじゃねー、と天気を恨めしく思った。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
「猶予って言われても、いつでも変わんないだろ」
「じゃあせめて、せめてってなんだよだけど、この経験を活かせるよう私の嫌だったところ言ってよ。私も雪村の嫌だったところ言うから。それで喧嘩両成敗ね」
 もはや自分が何を口にしているかわからなくなってきたが、車窓から見える景色から自宅が近づいてきたことがわかって、迫るタイムリミットに焦って早口で伝えた。雪村は「なんだよそれ」と苦笑して(まったくだ)再び赤信号で停車した。
「えー……急に言われてもなあ……」
 雪村はハンドルを人差し指でタップするようにしながら考えているようだった。
「……なんだろ……、別にないけどなあ……」
「……」
 じゃあこのままでいいじゃん!
 と言ったって無駄だろうから我慢した。それよりせめて、一矢報いるような気持ちで雪村の嫌なところを探していた。
 ……何も思いつかなかった。私が特別審査課に異動したとき、一番優しくしてくれたのは雪村だったことを思い出しただけだった。
 それも別に、私が相手だからでは、ないんだけど。
 二度目の沈黙が訪れた。さっきと違っているのは、私がほとんど諦めていることだった。
 だって雪村は、そういう人だから。
 じっと考えていた彼が顔を上げた。
「別にないかも。お前のこと、今も普通に好きだし」
 形のいい唇がにっと上がっている。私より身長が高いくせに、どういうわけか器用に上目遣いをして、嘘みたいに長い睫毛に彩られた淡い色の瞳は私の心に無邪気に傷をつけていった。
 そういうところが嫌いなのだ。そうだよ、ハンドルを握る手は大きいのに指は細長くて華奢なのも、ボスの前では自分をボク、と言っているところも、そういうところが好きだし嫌いだ。
 初めて雪村から顔を逸らして、前を向いた。フロントガラスに落ちた雨が、前の車のライトを受けて一つ一つ光の粒になっている。ワイパーの機械的な動きが、その小さなきらめきをすぐに消してはまた生まれていく。
 こんなふうに、自分も雪村も、過ぎていくうちの一つなのだと思った。
 信号が青に変わる。

「大丈夫? 明日来られそうか?」
 マンションに到着して、車を降りるときにそう声をかけられた。もう日付的にはその明日、の真っ最中である。今日は睡眠時間がどれくらい確保できるかわからない。
 雪村はこれから更に自宅へ戻るのだから、もっと大変だろう。今までしてきた話とは関係なく労わなければならないとわかっていたので、ドアを閉めるときにぶっきらぼうに礼を言った。こういうものわかりのいい自分だったから、きっとだめだったのだろうとも思う。
「そう思うならこんな話すんなし。……行くけど」
 ボスが私を待っているから仕事に行く。雪村もそうだろう。私たちは結局、お互いよりボスが大事だったから、丸く収まってしまったのだ。
「そう。じゃあ、おやすみ」
 運転席の窓が閉まっていく。
 他の同僚と変わらないって言われたけど、昼間は土屋田は蔵木は、おやすみって言ってもらったことあるかよと思った。
 優しくされたくなかった! あるいは、私たちが担当するギャンブラーみたいに何もかも違ったら終わってしまうことはなかったのだろうか。今更むかついてきて、立ち止まって振り向く。
 遠くなっていく車に思いっきり中指を立てる。