幸福な子供のためのやさしいレクイエム

 自分にも世界にも特大の迷惑をかけて死のうとして、親の遺産でギャンブルに手を出した。でも、勉強もスポーツも何一つ上手くいかなかった僕に賭博の才能はあったらしい。
 はなから死にたい僕はゲームに自爆上等の気持ちでぶつかり、結果、なんと勝ち続けていた。この世に未練なんてないと思っていたが、脳汁が出る瞬間だけは生きていることを受け入れられる気がする。結局延命している事実にまた死にたくなるのだけど。
 今日はカラス銀行の人が家まで来て、今後について説明をするという。体裁なんてどうでもいいと思っているのに来訪者があるからコソコソ部屋を片付けている僕は滑稽だ。それに使いきれないくらいの大金があるのだから、ハウスキーパーの一人でも雇えばいいのだろうが、変貌した生活についていくのが精いっぱいで、何か新しいことを始める余裕はなかった。
 なんとかマシになった部屋に書面を引っ提げてやって来たのは榊さんという行員だった。
 僕は榊さんがちょっと苦手だった。4リンクのゲームで渋谷さんのサポートをする彼のことは見ていたが、今日についてのアポを取られて初めてまともに喋ったときビビってしまった。これまでの人生で避け続けてきた、少し粗野なところがあるタイプだ。そしてそれすら自分の盾や剣にして、他人とうまくやってきた人だと思った。味方にできたらきっと手堅いが、悲しいほど免疫がない。だって二人称が「お前」だし……。
 リビングのローテーブルを挟んで向かい合う。榊さんは一人掛けのソファ(この日のために買って模様替えした)に脚を組んで座っている。態度がでかい。慣れない紅茶を淹れて彼の前に置くと、ぎくしゃくした動きを嗜めるかのように視線が送られた。たぶん全部気のせいで被害妄想だけど……。

1/2ハーフライフ昇格にあたって担当行員がつくことはこの前話したよな?」
「はあ……」

 ギャンブラーのランク制度についてざっと振り返った後、切り出される。ちゃんと覚えていたわけではなかったので曖昧に返事した。僕は人の目をまともに見れないので、彼の襟元を見ていて、スーツはスリーピースなのかな、と全然関係ないことを考えていた。——やばい、理解していないのを誤魔化したと思われたかもしれない。なんでもなあなあにするのは僕の悪い癖で、はっきりしろと怒られることが多い。さっと血の気が引いていくような心地になって榊さんの顔色を窺ったが、特に気にしていないようだった。

「お前の担当はオレだ」
「えっ……」

 一瞬、沈黙。思わず正面から榊さんを見据えた。

「ハイ……」
「嫌そうにすんな!」
「すっすみません」

 彼の形のいい眉が吊り上がって、僕は反射的に頭を下げた。
 思わずフリーズしてしまった。だって聞いてない(だから今言ったんだろう)。この人が後ろに控えてどやされながらゲームする、そんなイメージが浮かんでしまった。
 嫌だなあ……という態度を出してしまったせいで、雰囲気がちょっと悪くなる。こんなにわかりやすくてはこれから生き残っていけない。早く死にたいので、それでいいのかもしれませんが……。
 居心地の悪さから逃れるように、視線を逸らして渡された紙の資料をなんとなくめくる。おまけに先程の説明によれば、担当行員のボーナスについても僕の勝敗が少なからず関係してくるらしい。どういうことなんだ。他人のキャリアまで僕が背負わなければいけないのか。端的に言って嫌だった。こっちはもう責任とかそういうものから全部解放されていなくなりたいのに。
 僕はこれまでの対戦相手のことを思い出そうとした。僕が破滅に追いやった人たちのことを思えば、今の自分の立場を受け入れるだけの覚悟が決まるかと思ったのだ。noblesse obligeノブレス・オブリージュ……。受験も就活も失敗した僕が、そんなチート主人公のような地位に就いていることが信じられない。

「あの、一つ質問いいですか」
「なんだ」
「僕がこれまで戦った人たちって今何してるんですか」

 榊さんは少しの間眉を下げた後、右手を額に当てた。

「……そんなことわざわざ聞きてえか?」
「いえ、まあ……」

 彼の態度にいちいちビクビクすることにももはや慣れて、冷えた指先を紅茶のカップで癒しながら返事する。

「全員死んだよ」
「——ぉえ゛っ」

 カップを持った手が生温かいもので濡れた。え? と思って視線を落とす。自覚する間もなく嘔吐していた。遅れて吐き気と恐怖が込み上げてきて、僕は汚れたカップを気にする暇もなくなんとかテーブルに置くと、口元を押さえてトイレの方に駆け出した。駆け出した、と思っているだけで、脚がガクガクして言うことを聞かない。這々でドアを開けて、便器に向けて逆流してきたものをぶちまける。紅茶が混じった液体が派手な水音を立てて跳ねた。

「うえ゛ぇ、っ、っひ、」

 鼻の奥がつんと痛くて、涎が顎を伝う。すべての感触が生々しいのに、思考はやけにクリアだった。
 間接的であれ直接的であれ自分が何人もの人の命を奪ったということに、本当は気づいていた。特別融資のシステムを知ったときから見ないようにしていただけで揺るがない現実としてそこにずっとあった。その取り返しのつかなさに今更竦んでしまって、脳と身体が拒否反応を起こしている。
 デスゲームに選ばれて、僕だけが生き残る。そんな掃いて捨てるような妄想の中だけで生きてきたツケが今回ってきた。僕が弄んでいるのは本物の命と金だった。
 急に対戦相手の罵る声やくしゃくしゃに小さくなったような姿を思い出した。ゲーム中にペナルティを負ったり負わせたりしたときの方がよっぽど死に近づいていたのに、今更怖気付いている。
 傷つけたことに傷ついているなんて都合がよすぎる。それで僕が死んでないのは辻褄が合わないだろう。本当に今すぐ死にたい。
 このまま吐瀉物を喉に詰まらせてしまえば苦しみながら死ねるだろうか。死体は銀行が回収するのだろうか。他人の命から吸い取った金はどこへ行くのだろう。
 いつの間にか泣きながら吐いていた。動揺していたがおそらく生理的なパニックからくるものだった。押し寄せてくる自己嫌悪はとめどないが、涙するほどの情緒はなく、激情的な思いつきと裏腹に心はどこか外国の砂漠のように静かに乾いていた。非情な自分を呪う気力ももう枯れ果てている。はなから終わっている人間だ。こんなものは痛み分けにもならない。
 もう胃の中に何もなくて、喉が引き攣れるような感覚だけがしていた。ず、と鼻をすすると、すっぱい臭気がしてまた気持ち悪さが込み上げてくる。

「……そんな調子じゃこの先やっていけねーぞ」

 いつの間にか後ろに榊さんが立っていた。冷ややかに見下ろされてばつが悪かったが、気持ち悪さでうやむやになる。一度波が引いたから吐くのが怖くなって震えていると、触るぞ、と声をかけられた。
 背中にそっと手が当てられる。首だけ振り返ると、彼が長い脚を折りたたんでしゃがみ込み、僕の背中をぎこちなくさすっていた。
 声色は厳しい。でも手は温かい。僕と榊さんの境界が彼の手のひらぶん融和する。
 怖いだけと思っていた彼の手つきが優しくて、戸惑い、同時に安心する心地になる。
 人を殺したことより他人の温度を感じたことで泣きたくなる僕はやはり狂っている。だから狂った世界で生き延びてしまっているのだろうと思った。

「わかって、ま゛す……」

 息も絶え絶えにそう返事して、また便器に顔を突っ込んだ。
 ちょっとだけまた吐いて、トイレットペーパーに手を伸ばし、乱暴に引きちぎって口元を拭う。その間も榊さんは背中をさすり続けてくれていて、僕が落ち着きを取り戻すと、最後にぽんぽん、と二回軽く叩いて離れていった。ほんの少し名残惜しさを感じてしまい、振り向く。
 榊さんはうんこ座りをしながら「困った」と「呆れた」が半分、「面倒くさい」が半分、といったような表情をして僕を見ていた。面倒くささが上回りながらも慰めてくれたことに、申し訳なさを感じる。
 どうして榊さんは僕の担当になったのだろう。生きることをやめたいのに自分で終わらせることもできない、醜くて情けなくてダサくてしょうもないお先真っ暗の僕を目にかけるなんて、見る目がないと本気で思う。
 そして、こういう甘さが彼がうまくやっていける器用さなのだろうな、と思って、さっき初めて知ったばかりなのに、想像上の彼の過去の施し——たぶん後輩とか年下にしているやつ——に少しだけ嫉妬した。

「……すみません、もう大丈夫です」
「ランクは口座の残高で決まる。適当に使っちまえば降格になる」

 相変わらず厳しい声色だったが、最後の退路を示してくれている。なんという甘言だろう。でも、僕は首を横に振ると、身体ごと榊さんに向き直った。

「さ、榊さんと一緒なら、大丈夫です。榊さんに失望されることの方が、怖いです」

 こんなにぐちゃぐちゃの姿を晒しているから、もう何も怖くなくて、榊さんの目をなんとなく見ることができた。さまざまな液体で汚れて、よれよれになった姿は、彼の目にはギャンブラーらしく映っているだろうか?
 榊さんは、一瞬目を丸くすると、眉を困ったように寄せて黙り込み、頭を掻いた。胸元でわだかまっていた彼の長い髪が一房すべって膝の前に垂れた。この人も大概わかりやすいと思った。
 できれば一刻も早く地獄に行きたい僕にどうして期待をかけるのか、理解できない。たまたま手が空いていたとかそういう理由かもしれなくて、何故と思うことすら自意識過剰なのかもしれない。でも、僕がそれでも生きる理由を彼との関係のせいにしてしまうのもいいのかもしれないと思った。
 榊さんの優しさを知ってしまったから。背中を撫でる手と体温を享受して、彼の期待する僕の未来に少しでも——いい意味でも、悪い意味でも——報いてから死にたいと思ってしまった。ごめんなさい、僕が最後に迷惑をかけるのは、あなたです。
 きっと彼にとっては仕事で管理する人間の一人でしかない僕の、残り少ない人生に榊さんを巻き込むのは容易くなく、せめて最期は強烈に、苦々しく、後味悪く迎えてやろうと決めた。n日後には死んでしまう僕が、レストインピースと祈られない僕が、あなたの思い通りになることと、あなたの心に水を差すことだけを考えている。これってすごくないですか?
 ぶよぶよに肥大した自意識が不可逆的に転がり出す。

「……なんでそこで笑うんだよ……おめーどういう情緒してんだ」
「ぇあ、す、すみません……キモかったですよね……」

「なぁ御手洗、オレって怖えーのかな」
「え? ……急にどうしたんですか?」
「そんなこと気にしてるんですかぁ? 榊さん、ちっちゃい男ですね」
「ハハッ、何を言い出すのかと思えば!」
「人相は悪いという説が有力です」
「あーハイハイ、オメーらに聞いたのが間違いだったよ……」