フライト・トゥ・ムンバイ

 病院の天井は、どうしてこんな虫が這いずり回ったような模様をしているのだろう。
 首をほぼ固定されているから一点を睨み続けることしかできず、そのうち飽きて目を閉じた。
 先のゲームで逆上した対戦相手に首を刺されて、カラス銀行が手配する病院に入院していた。当然相手は失格、その後は想像したくもないが、もともとペナルティで満身創痍だった自分は場外乱闘に巻き込まれてしばらくベッドの上で生活している。適切な治療と時間の経過により、今は痛みや体調の悪さよりもはや退屈に苦しんでいた。

「オイ、話聞いてんのか」

 左側から降ってきた声にふたたび目を開けた。眼球を目いっぱい動かして、おれの担当行員の榊さんが、横暴そうにスツールに腰かけているのを視界に捉えた。
 榊さんが見舞いに来るのはこれが二回目だ。暇なのだろうか。いや、おれがゲームに参加できない間は榊さんも身動きが取れないんだっけ? 首元の違和感と、泥濘に浸かったような今の頭ではうまく考えられなくて、ついでに彼の話もあまり入ってこなかったが、呟くように「きーてますよ」と返事して視線を正面に戻した。
 白い清潔な壁はカーテンで濾されたしぶとい光に照らされている。その光景もこの間から毎日幾度となく目にしているものだった。退屈は心を蝕んで不健康にするから、差し込む夕日が血の色みたいで自分を拒絶しているように感じた。視線を逸らしたくても逸らせないのも何百回目で、自分が自由からほど遠い場所にいることを罰のように刻み込まれてうんざりした気持ちをぶつけるように声を出した。

「榊さん、熱心ですね……現役の人たちよりおれのこと優先していいんですか」
「勘違いすんじゃねーよ、あくまで業務で来てんだよコッチは」

 榊さんが脚を組んでもっと横暴そうな感じになる。

「とっとと治しやがれ」
「そう言われましてもねえ……」

 あいにく治癒能力は平均並みだ。わずかに首を竦めるようにして、勘弁してくださいという雰囲気を出すと、彼は細長い上半身を折り曲げて組んだ方の脚に頬杖をついた。

「それに、おめーは必ず戻ってくるからな」

 なるほど榊さんにしては思わせぶりな口調だ。少しばかり思案して、また天井の気持ち悪い模様に目を向けた。
 おれはまたあの場所へ戻って死ぬということは、ぬるま湯に包まれたように安心と安全を保証されているこのベッドの上でもはっきりと自覚していた。
 でも、このいかれた銀行から逃れられないのは、それ以外にもちょっぴり理由があって、それが榊さんだった。
 おれは実際、榊さんのことが結構好きだった。業務のために発破をかけに来ていると言っていたけど、定時は過ぎているのではないだろうか? その裏表のない態度と隠しきれていない面倒見の良さにおれの心は出会ってから翻弄されつづけていて、彼にいいところを見せたい、という即物的な気持ちに導かれてふらふらと賭場に戻ってきてしまう。先程は嫌味っぽい感じになってしまったが、軽薄な態度を取ってもちゃんとまっすぐ言葉を返してくれる彼のリズムが好きだった。
 また榊さんを見た。夕日の角度は先程より低くなっただろうか、相変わらず血をぶちまけたような色が彼を照らしている。彼が訪れてから今日初めて口を開いたので疲れてきて、少し咳が出る。けれど喉が震えると首の皮膚が引き攣れて痛む。顔を歪めて咳をやり過ごそうとすると、榊さんの表情に少し気遣うようなものが混じって、不謹慎に嬉しくなった。
 おれが彼の心を操作している。ゲームの最中と同じ興奮が立ち上がってくる気がした。
 咳が落ち着いたら榊さんの肩も下がる。ギャンブラーなんかよりよっぽどわかりやすい。でも彼がこの場所で生き延びているということは、おれには見せない顔があるのかもしれないと思うと静かに昂る気持ちになる。

「あーあ、南の国にでも行って勝手に死にたかったなー」

 とはいえゲームでペナルティを負ったときも首を刺されたときも激しく苦しくて、これも半分くらい本音だった。

「榊さん一緒に来てくれませんか?」
「なんでだよ、キメェこと言うな」

 理解できない、というようなしかめっ面はおれとの会話の中で榊さんがする表情の圧倒的第一位だ。

「本気ですよ」

 見つめたまま口にした。重傷の姿でする告白は小っ恥ずかしかったけど、平然を装うのは賭けに出るときより簡単だった。生白い空間におれの声が一瞬響いて、つかの間、静まり返る、という状況を辞書で引いたみたいになった。
 榊さんは立ち上がって(そこから先は目で追うことができなかったけどきっとドン引きした表情をしていると思う)おれが寝ているベッドにがしゃんと蹴りを入れる。思わず笑顔を浮かべたおれの全身に衝撃。とっととくたばるか治るかしろボケ、と言って乱暴に病室を出ていった。
 嵐が過ぎ去った後のように、今度こそ静まり返る。独りになったら馬鹿みたいな気分になって、首の痛みに耐えながら何回か声を出して笑った。
 自分に生きる選択肢を残してくれる榊さんは愚かで、かわいい。こんな感情を抱く自分も同じくらい愚かだ。
 おれの弱点は榊さんで、でもあなたはそのことになんて気づかないんだろうなと思った。命を賭けながら騙る好き、はほとんど呪いだった。あなたの心にちょっぴり傷を残す呪いの効果も、南の国の夢も、榊さんと一緒ならどちらも手に入れたくて、ぎらぎらした欲が傷口を焼いて痛かった。