Your Favorite Things
心地のいい温度の風が肌に当たる感触を楽しみながら、颯は上機嫌に中央地区を進んでいく。
虹顔博物館で開かれた特別展に足を運んだ帰りだった。展示の目玉は修復が完了したばかりの恐竜の化石で、市内外から注目されている。とはいえ平日の日中は来場者が少なく、スムーズに鑑賞できたことが嬉しかった。こういうとき、一般的な社会人とは異なるペースの生活に幾度となく感謝する。ミュージアムショップで愉快な手土産を買うこともできて、充実した時間を過ごせた。
娯楽地区や商業地区ほどではないが、駅前が近づいてきたため交通量が増えてきた。目の前の歩行者信号が点滅を始めたので、ちょうど小休憩を取りたかった颯は立ち止まる。すると、向かい側から小走りまじりでやってくる人々に紛れて、歩調を緩めたまま歩く見知った姿が目に留まった。
「ノアさん?」
エージェントの明らかにいつもと違う様子にぎょっとする。まるで茫然自失という言葉を擬人化したように、肩を落としてふらふら横断歩道を渡っている。慌てて少しだけ道路に出て声をかけると、エージェントは初めて颯に気づいて目を丸くした。
「は、颯さん」
「こんなところでどうしたの? 危ないよ」
「……颯さんこそ、中央地区でお会いするの、珍しいですね」
信号待ちの人混みの中、一応会話を続けられるくらいではあるようだが、さっと逸らされた目元が赤くなっている。颯は一瞬駅ビルの店構えの記憶を巡らせて、エージェントの腕を引いた。
シックなブラウンとベージュで統一されたカフェの、少し奥の席に向かい合って座る。
「僕はホットカフェラテのMサイズで。ノアさんは?」
「あ、じゃあ同じものを……」
手早く注文を済ませ、颯はあらためてエージェントの顔をうかがった。
会ったばかりのころよりいくらか落ち着きを取り戻しているものの、まだどこか上の空の様子でうつむいている。服装や髪型に乱れたようなところはなく、事件や事故に巻き込まれたというわけではなさそうだ。ときどきすん、と鼻をすすっているので、颯は自分の荷物からポケットティッシュを取り出して差し出した。
「……すみません、ありがとうございます」
気まずそうに受け取った指先。いつもどおり笑顔を見せてみる。
「いえいえ。それで、どうしたの? 僕に話せることがあったら聞くけど」
普段の仕事でもさまざまな状態の相手に接しているので、こういったシチュエーションの対応には慣れているし自信があった。それをエージェントに発揮することは少し想定外だったけれど。
エージェントは先ほどのティッシュで控えめに鼻を拭った後はずっと無言で、そのうち注文した二人分のホットカフェラテが届く。店員に礼を言いながら、どんな二人組に見えてるんだろう、と少し思う。
感じのいいピアノのBGMが三曲目に入った。
「……えっと、カフェラテ冷めちゃうよ?」
「……」
「……あー、雨降りそうだね。ノアさん傘持ってる?」
「……」
なかなか重症だ、と颯は顎の下に手を当てる。
いただきます、と断りを入れて自分の分のマグカップに口をつけていると、エージェントがカップを手に取った。お、と思いながら見ていると、温度を確かめるようにしてから傾ける。そしてエージェントは、品のいい姿勢のままカフェラテをごくごくと飲み干していった。
「の、ノアさん?」
泡だけを縁に残したマグカップを音もなくテーブルに置いたエージェントは、
「失恋、して」
と、その豪快な仕草に似合わない小さな声で言った。
失恋。ノアさんが失恋。
颯は正直なので、彼の心に最初に浮かんだ気持ちは「すっごく気になる」だった。ときどき世間知らずな一面や個性的な仮面ライダーたちに振り回される姿は見ているものの、公私の違いをあまり感じたことはないくらい素直で裏表がなく真面目なエージェントが、こんなに身をやつすほどの失恋をしたという。それはあまりに颯の興味を引く事象だ。
しかし同時に、そのわくわくした気持ちを表に出さないように努めることくらい、颯にとっては造作もないことだった。表情を変えないようにしながら、「そっか」と相槌を打つ。
「話してくれてありがと! ふらついてたからすごく心配したよ。でも、そっか。失恋なんだね」
「はい……颯さんにお話していいのか、わからないんですけど」
「僕でよかったら全然聞くよ〜、話しづらいことは黙っててもいいし」
とっておきの上目遣いで目配せする。まともに目が合ったエージェントは慌てて視線を空になったカップに落として、手のひらを膝に擦るような動きを何度か繰り返してから重たい口を開いた。
経緯としては、まず、仮面ライダー屋に一つの依頼が舞い込んだことから始まる。「プロポーズのためのサプライズに協力してほしい」というもので、場所を提供するために仮面カフェが協力することになった。
そして、計画が無事成功したのがついさっき。バックヤードでお祝いムードを引きずって会話していたときのこと。
『それにしても、お幸せそうなお二人でしたね』
『本当に素敵だったね。協力できてよかった。……ねえ、あんなふうにプロポーズされたら私も嬉しいのかな、まだ全然想像できないけど』
『いつかノア様にも必ず素敵な機会がやってきますよ。そのときもしお相手からのサプライズ計画がございましたら、わたくしが全力でサポートいたします!』
「……つまり、執事さんから眼中にない感じで返事されたことが気になっちゃってショックだったってこと?」
「はい……」
「おお……」
あのエージェントが、結婚を前提とした関係をさらりと口にしたことに、会話のプロなのに思わず息が漏れてしまった。颯は口を引き締めながら続きの言葉を待つ。
「……私、レオンのことがずっと好きだったし、約束をしていたわけではなかったけど、いつか結婚するのが夢でした。でも、結婚の話題で彼からまるで意識されていないことがわかって、ああ、違うんだなって……」
「でも、約束してたわけじゃなかったらそこで自分を出してくるのもヤバくない?」
「たしかにそうですけど……」
エージェントは言葉を探すように口をつぐんだ後、眉間に少し力を込めて続けた。
「……結婚相手として見られていないってことより、なんていうか……いつまでも守ることばかりで、レオンの中で私が対等な相手として存在していないことがつらかったのかもしれません」
「対等……」
「私、クラスを結成したり、そうでなくても変身して戦える仮面ライダーのみなさんとも違いますし、生まれた家もあんまり普通じゃないですし、対等とか特別扱いされないみたいなことに憧れてて」
エージェントは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと声にする。
「だから、ああ、レオンにとって自分はいつまでもそうなんだって思って……」
颯は少し考えてみたが、残念ながらその感覚を正しく理解することはできなかった。颯からすれば、レオンからエージェントに向けた特別のかたちも同じくらい尊いものだと思えたからだ。しかし、自分がエージェントの孤独を理解できないように、きっとエージェントも自分の価値観を心から理解することはできないだろうから、そう指摘するのは得策ではないとわかりきっていた。
「それで失恋、かあ」
毒にも薬にもならない相槌を打つ。
「はい……自分でも全部が勝手すぎて、ばかだなあって思うんですけど」
エージェントは苦笑まじりに言った。
その表情が気になって颯は明るい声を出した。
「そんなに簡単に諦めちゃうの、僕はノアさんらしくないって思うけど。だって、まだ当たってもいないのに諦めちゃうってことじゃない」
エージェントは迷子のような顔で颯を見た。
「当たってみるって、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。好きって伝えてみたら? まあ、いろいろしがらみとかあるのはわかるけど……もし振られちゃったとしても関係が悪くなることはないって二人を見てて思うけどな」
それとも新しい恋とか始めてみる? と、颯は冗談めかして言った。
「なんてったって、こんなにいい男を昼から捕まえてお茶できてるんだからね、ノアさんは」
「自分で言っちゃうんですね……」
ウインクしてみせると、エージェントはやっと気が抜けたように笑った。
「でも、ありがとうございます。すみません、こんな話。颯さんに急にしちゃって」
「大丈夫! 少し元気になったみたいでよかったよ。ほんと心配だったから」
颯はカフェラテの残りに口をつける。ぬるい温度を感じながら、今の話を聞いたのが他の誰かじゃなくてよかった、と思っている自分に気づいた。
でも、ごくんと飲み干してしまえば、その気持ちもミルクの淡い甘さに紛れてしまったようだった。
「あ〜、おいしかった! ノアさん、この後時間ある?」
ちょっと歩こうよ、と席を立ちながら誘ってみる。
「はい」
「今日博物館に行ってきたから、今度は僕の話も聞いてよ! そんで、手も繋ご!」
「え、手ですか?」
「歩いてる間だけ! ……ダメかな?」
「いいですけど……」
きょとんとした表情で後ろを着いてくるエージェントに、おまじないだよ、と言って手を差し出す。
店を出ると、頭上には今にも降り出しそうなねずみ色の空が広がっていた。けれど、左手に温度を感じながら、やっぱり颯は上機嫌だった。