our strange steps
「好きって言ったら怒る?」
本丸の執務室で、頬杖をついて書類を眺めたままの審神者が言った。
「はい?」
宗三左文字は振り返って審神者を見た。審神者の視線は相変わらず手にしている政府からの何某かの文書に向けられていて合うことはなかった。
「誰が、何をですか」
十中八九、事務仕事に飽きてきたのだろう。言葉遊びのような問いに一応付き合って促すと、審神者は初めて宗三のことを見た。
「俺が、宗三のこと」
「……」
嘆息しそうになったのを飲み込んで、宗三は無視を決め込むことにした。
「怒った?」
「……いいえ。ただ、つまらないなあ、と思っただけです」
「怒ってるじゃん」
審神者は紙を文机に置いて筆を置き、伸びをした。どうやら本当に仕事を中座するようだ。宗三が執務室に呼ばれて半刻近く経つが、その間に進んだのは最初の一枚だけで、あとはずっとこの調子だった。
「僕を呼んだのはそのためだったのですか」
「違うよ。ちょっと頭が回らなくて、ここに昔からいる刀の知恵を借りたかったんだけど……」
審神者は伸びをしたままの姿勢で天井を見上げた。
「もうそれはいいや。今日はこれでおしまい」
「はあ……では、僕はもういいですか」
「うん。ううん? うん」
「どっちなんですか」
今度こそ本当に溜息をついた。宗三は今の主のことを嫌っているわけではなかったが、若者らしい調子のよさに少し呆れるのがいつものことであった。
さっきの告白。本気ではないことはよくわかるのに、この男は何を勿体つけているのだろう。審神者は伸ばしていた腕を下ろす。
「いや……この話もしたくて」
「貴方が僕を好いているという話ですか」
「うーん。うん」
「……」
宗三は審神者をもう一度見返した。
「……だったら侍らせるなり見せびらかすなりしたらどうですか。いつも言っているでしょう。貴方は僕の主なのですから」
「それはわかるけどさ。……わかるっていうのはいつも言われてるってことね。でもそうじゃないんだよなー……」
審神者は眉間を揉んで上半身を文机の上にだらしなく投げ出した。
「うーん、やっぱなしで」
「……そうですか」
宗三は立ち上がった。
この審神者が自分のことを何かと(綺麗であるとか、かっこいいとか、強くてすごいとか)言って、宗三が無感動に受け流してそれで終わりになることは今までにもよくあった。面と向かって好きと言われたことはなかったが、今更どうということもなく、その延長線である。執務室を出た。
廊下は少し冷えていた。襖を閉めながらちらりと審神者に視線をやったとき、伸びをしたから着物の袖がまくれ上がって肌が見えていた。
刀を振るわない、弱くて脆い腕だ。そう思ったとき、宗三はなんだかざわめくものが胸の中で立ち上がったような感じがした。
夜半、任務から戻った小夜が傷を負ったと聞いて、宗三は手入れ部屋へ向かっていた。
廊下の角を曲がる前に、向こうから床を踏みしめる音がした。この気配は刀のものではない。
「宗三」
審神者は自分の顔を見つけて顔を綻ばせる。
「小夜なら、軽傷だったからもう戻ったぞ」
「では、入れ違いですね」
弟の怪我がひどくないようでよかったと思った。
ただ、審神者がまだ何かを言いたそうであるから、そのまま踵を返すわけにもいかなくなる。
長い廊下の端と端で対峙する。夜目が利かない者のために薄明かりが点いているが、宗三はそれを必要とせずとも遠くの彼の表情がわかった。それは宗三が人間ではなく、打刀であるからであったし、あるいは、この本丸に長く在るからかもしれなかった。
「……まだ何かありますか」
つい口に出していた。
審神者は片方の腕でもう片方の腕を擦った。落ち着かない様子でいる。
冴えた夜の空気がひたひたと押し寄せてくる。
「いや。……あのさ、」
「はい」
審神者は少しの時間狼狽えてから、歯切れ悪く切り出す。
「その、この間のこと。嫌な気持ちにさせてたら申し訳ないと思って」
この間のことというのは、審神者に執務室に呼ばれたときのことだろう。
「はあ……」
おおよそ見当がついていた。あの日以来、本丸での生活において審神者からなんとなく避けられていることは、おそらく自分以外にも伝わっているというくらい、彼の態度の変化はわかりやすかったからだ。
「別に……なんとも思っていませんよ」
「うん。宗三はさ、主を選べないだろ。だから……」
審神者はそこで言葉を区切ると、自嘲するように口だけへらっと笑った。
「俺の言ったことは、忘れてほしい、かな」
ああ、嘘だ。審神者が強がっていることがすぐにわかった。ということは、あの告白はある程度本気だったのかもしれない。
刀であったときの自分をめぐる人間の有為には、常にといっていいほど人間の欲がついて回った。しかし、自分に焦がれるというこの二十三世紀の人間の感情は、もっと未熟なもののように思える。ぎこちない表情はまるで自分の発言を否定されるのを望んでわざとこちらを試すようだ。
でも、だからといって宗三に何ができようか。
結局、沈黙に耐えられなくなった審神者が「おやすみ」と言って戻っていった。
宗三も踵を返す。その日はなんと返事をすればよかったのか考えているうちに眠ってしまった。
目が覚めた。外がいつもより白んでいる気がする。
まだ起床するには少し早い時間だったが、宗三は布団からそっと出た。
回り廊下に出ると、雪が庭の低木の椿に積もっているのが見えた。
以前、審神者に本丸の天候や気温は自由自在に操作可能だと聞いたことがある。四季があるのは審神者が好き好んで設定しているのだという。だから、この本丸の刀剣男士たちは、二二〇五年の実際の気候がどのようなものか知らなかった。
と、人影が見えて擦り足を止めた。
審神者の後ろ姿だった。
格子の枠にはまった少しいびつな窓ガラス越しに見える審神者は、見るからに雪かきに苦戦している。
内番の担当者にやらせればいいものを。半纏を羽織って膨らんだ背中を見つめていると、屋根から落ちてきた雪の塊に驚いた審神者が体勢を崩す。見ていられなくなって、宗三は玄関へ向かった。
「……何をやっているんですか」
引き戸を後ろ手に閉めながら声をかけると、吐いた息が白くなって溶けた。
「っ、宗三。おはよう」
手にした橙色の道具を地面に突っかからせながら、審神者が驚いたように返事をする。頬は寒さからか薔薇色だった。
「積もったなー」
昨夜のことをまだ気にしているのか、露骨に視線が合わなかった。それでもいつもどおりのように会話を続けようとしている。
別に、これでいいのだと思う。
審神者の言ったとおり、忘れて、元に戻るだけだ。
「ここの天気は、貴方が決めているのではないのですか」
「そうだよ。支障のない範囲で日本の冬景色を無作為に出力するよう設定してある」
「自作自演じゃないですか」
鼻の頭を赤くしているこの男がばかばかしく思えて、思わず正面から審神者の顔を見据えた。
「でも、歌仙あたりが見たら喜ぶだろ。椿の赤に雪が映える」
「……」
きっと歌仙兼定がこの景色を見たところで、審神者にしてやれるのは歌を詠むくらいのことだろうと思う。
外に視線を向けていた審神者がそっと、うつむきがちに宗三を見返してくる。
この間からずっと、優しい言葉を一つもかけてやらない自分に対して、お人好しすぎると思った。
急に苛立った。何かが自分の内側でかっと燃えるのを感じた。
宗三は目の前の人間を見定めるように目を細めていた。
――もし今、自分がいきなり刀を抜いたとしたらこの人間はどうするのだろう?
一面の雪に別な赤色を想像してみる。顕現した刀剣男士が力の源である主を斬れるのかはわからないが、言い換えればそれはやってみなければわからないことだった。そもそも圧倒的に力の差があるから、非力な審神者を殴りつけでもすれば肌の内側に血がにじむだろう。
審神者がくしゃみをして、宗三の極端な想像はそこで途絶えた。
すべてが今更だと感じた。
「貸してください」
雪かきの道具を半ばひったくるようにつかむ。冷えた指先が触れた。
「でも……」
「平気です。僕たち人間よりずうっと力があるんですから」
すん、と洟をすすった審神者が呆気にとられたように宗三を見た。
審神者に背を向ける。冬、というのは、宗三がこの本丸に顕現した季節でもあったことを思い出した。
初めて雪に触ったとき、その冷たさに、人の身にはあたたかさが通っているのだと審神者に教えてもらった。
もう随分昔の話だ。